showもない

ぶっ飛んだピアスを身につけて欲しい

点と点

喋ることで頭が回る人と、黙らないと思考できない人がいる。関西には前者の人が大変多くて、議論している中で思考がドンドン深まっていく。後者である私は大抵、喋り負ける。黙って頭の中でロジックを組み上げるけれど、会話の中で前提を覆れると、黙って一から組み直さなければいけないのに、先方は喋り続けることで自分の外に論理を構築していく。一旦内部で組み上げて、外に伝える2ステップを踏まなければいけない後者はスピード感で完全に不利だ。反復練習で精度とスピードを高めるしかないのかな。

砂漠の花

誰かと今の気持ち、喜びであったり悲しみであったりを共有したいけれど、上手く話せないし中々言葉になっちゃくれない。幸いな事にインターネットが発達したので、冷静に文章に起こして他者の目に触れる場面を簡単に作れる。そうやって救われている人達がブログやツイッターには溢れてて、私も貴方もその一人。

奢る事について

会社では若手と言う立場上、上から奢られる機会もある。一方で後輩ができ、先輩として奢る立場にもなった今、思うことがある。

 

昔は奢る奢られる事なんて、マウンティングの取り合い位にしか思っていなかった。

「奢ったんだから、その見返りを寄越せ」「お前よりも金があるぞアピール」としか感じず、「奢らんでいいから、対等に扱え」と憤慨していた。今思えばひねくれている。だから奢られた際にも申し訳なさそうに「すみません、ありがとうございます。」とマウントを取られた事を認めたくない風に憎たらしげに伝えていた。

 

でも三十路が見えてきた今感じるのは、大人になると一緒に遊んだり、ご飯に行ってくれる人と言うのは貴重なんだな、と言う事だ。友達はいちおいる。けれど家庭があったり仕事があったり、今晩どう?と軽く受け答えてくれる人はドンドン少なくなる。スケジュールを調整してようやく会えるけれど、そこまでして会いたい人なのか?疑問が湧いてくる。そういった前提に立てば、自分と一緒に楽しい時間を過ごしてくれる、その事実に感謝があり、その思いから奢る、と言うのは至極納得のいく話だ。気付いてからは早かった。堂々と奢られられる。ヘラヘラしながら「ご馳走さまでーす」と軽く言えるようになった。せめて気持ちよく奢らせてあげたいのだ。後輩の鑑である。

 

そう気付いたのは後輩が出来てからだった。

その後輩は奢られるのが嫌いで「ありがとうございます」とは言ってくれるが、内心としては本位でないの透けて見える。

ただ、僕としては先輩から奢られた恩を後輩に返しているだけで、脈々と受け継がれていけばいいな、と思うだけなのである。結局エゴにも似た押し付けで奢っているのだ。けれどそのエゴは感謝の上に成り立っている。

実は仕事も似たようなものだと思ってきて、先輩から後輩へ、色んな知識や経験だけでなく感情や誇りも引継ぐ。それを歯車と呼ぶのなら、意外と心地いいのかもしれない。

 

ちなみに異性間での奢りはまた別で、私は女性に奢るのは先行投資と思っている。どうせ結婚したならば私の給料で養う事となる(本音としては兼業が理想だが)。そう、未来の嫁候補であれば、多少の飯代など安いものだ。

 

ただ中にはプライドが高く「マウントを取られている気分になる」方や一方的に奢られる不公平感に耐えられない方もいるらしく、奢りを拒否したり他で返したりする。正直めんどくさいが、お財布に優しいのでありがたい。

 

なんの話や。寝よ。

吉澤嘉代子はメンヘラではない。

新曲「残ってる」が公開になりました。

 


吉澤嘉代子「残ってる」MUSIC VIDEO

 

初聴の感想としてはふたつ。
「うわ、メンヘラくせえ。」
「なんかむっちゃエロい。キキに憧れて魔女になりたかった少女ではなくて、20代の東京の女だ。」である。

 

とは言え、ファンクラブ会員としてはこの曲が新たに書き起こされたものでなく、以前から暖めていた楽曲がようやく陽の目を浴びたものだ、と知っています。
なので吉澤嘉代子が最近、似たような経験をして、即座に歌詞に書き起こしたわけではない。断じて違う。そんな男おったら殺す。以前から彼女は「東京の20代の女」なのである。それを露骨に出してきた、それだけの事である。

 

さて、妄想系シンガーソングライターと銘打たれる事の多い吉澤嘉代子氏ですが、では何故僕は「メンヘラくせえ」と思ったのか。

所謂メンヘラってえのは「相手への執着」が度をすぎていたり、感情を抑えきれずに出た行動が異常であったりするから問題視される(貴方を殺して私も死ぬ!リストカット等の自傷行為云々…。)と思っているのですが、

その点、吉澤嘉代子氏のなんと健気な事か。この曲での執着の対象はあくまで「身体の奥に残っているあなた」と「一夜にして街を超えていった季節」であり、名残惜しさである。
「あなた」ではなくその体感。もう少し余韻な浸っていたい。決してのんびりとしているわけではなく、自分の気持ちに対して、時間があまりに早く過ぎ去る事(と言いつつ「早朝」と言う小ぶりなスケール感がいじらしい。)への違和感。それに我儘に異を唱えたい、そんな楽曲なんだと感じている次第です。

 

この曲に相手への執着はない。
あれば「もっと一緒にいたい」や「すぐまた会いたい」と言ったニュアンスのフレーズが出てくるはず。安易ですね。

だからこそ吉澤嘉代子はメンヘラではないのだ。

 

余談ですが知人がTwitterで「かき氷色のネイルが剥げていた」で秋を表現する事への感銘を呟いてしました。その折に気付いたのですがこの曲、一番では「季節が変わった」事へは言及せず「昨日から今日への」変化に留めています。2番に入って初めて季節が変わる風景描写へシフトしています。上記の歌詞で夏の終わりを隠喩した後になって「夏は寒々しい」と言い、曲の最後で秋の到来を歌っているんです。でも「昨日を生きていたい」と締めくくる。時間の流れを冷静に捉え、夏から秋への季節の移行を受け入れている、その一方で気持ちだけはまだ夏に、昨日の余韻に取り残されている。時間感覚のダイナミクスと体感のズレへの抗いが、控えめに言って最高です。ああもう。

 

11月のライブで聴けるだろう、楽しみです。